■2月某日 晴れ
今日は楽しみにしていたヴェネツィア行きの日。主だった荷物はすべてパリのホテルに預けて行くため朝から荷造り。午後からのフライトにしたため、荷造りを済ませレセプションに荷物を預けると、朝ごはんは近所のビュッシ通りのPaulでゆっくりいだたくことに。日本にもあるブーランジェリーのPaulだが、朝食メニューのバゲットトラディショナルは、日本のバゲットに比べると少し硬いけれど、なかなか味わい深くて私達のお気に入りなのだ。
さて、今回河村は初めてのイタリア。私は4度目のイタリアだが、前回行ったのはもう10年も前のこと。その時はどうしても以前行ったフィレンツェのウフィッツィ美術館に行きたくなり、やはり買付けの折に、その時は「買付けの前」にフィレンツェに寄ってからイギリスへ仕事に行ったのだった。が、まだひとりでアンティークの仕事をしていたときのこと、買付けが終わり帰国する頃には、「怒濤の買付け」の後でフィレンツェに行ったことなどすっかり頭から抜け落ちていたのだった。
そしてヴェネツィアへは、前回行ったのが学生時代にリュックを背負ってのひとり旅なので、ウン十年振りのこと。あの時は、ヨーロッパ中の鉄道に乗ることの出来るユーレイルパスであちこちを巡っていたのだった、確かイタリアの最後がヴェネツィアで、そこからは夜行列車でウィーンに行ったはず。夜行列車に乗るために、真夜中の駅でひとり期待と不安の入り交じった気持ちで、列車を待っていたことを思い出す。とにかくヴェネツィアといえば、迷路のような路地と小さな橋を渡ってトコトコ歩いていた記憶と、アカデミア美術館でヴェネツィア派の絵画に感動した思い出、そして当時ガラス工芸に夢中だった私は、街のあちこちで目にするヴェネチアングラスの工房を訪ねたり、とその時の自分の興味の向くまま旅を謳歌していた印象がある。
今回、パリからヴェネツィアまではエールフランスで。昨年のウィーン行きもそうだったのだが、冬場の世の中がシーズンオフのこの時期、競合するローコストキャリアを意識してか「それってバス代ですか?」というほどチケットが安いのだ。パリからヴェネツィアまでの片道の運賃が¥700!もっともそれに燃油や航空保険料がプラスされるのでそれなりのお値段になるのだが、それにしても安い。加えて、有名なヴェネツィア最大のイベント二月のカーニバルの直後とあってホテル代は約半額!いつもは泊まれない高級ホテルも今回ならなんとか泊まれるレート。「一年に一度の贅沢だもんね!」と自分で自分に言い聞かせ、買付けと同様、すべて私が旅のセッティングをした。
いつも利用しているシャルル・ド・ゴール空港から1時間半ほどのフライト。日本へのロングフライトとは違い、EU内のヴェネツィアへはチェックインの締め切りもフライトの30分前。こぢんまりした飛行機で、なんとも緩い感じで機上の人となったのだった。
途中、眼下に見える真っ白な山岳地帯のアルプスに、スイスに行ったことのない私達は「おお!!これがアルプスなのね!」と感激し、ヴェネツィアが近づいてくると、それが本当に「島」であることに改めて驚きつつイタリアに到着したのだった。
ヴェネツィアのマルコ・ポーロ空港からヴェネツィア本島の入口まではバスで。空港でバスのチケットと一緒にヴェネツィアでは必須の交通手段ヴァポレット(水上バス)の定期券も買っておく。ヴェネツィアは100数十もの島で出来ていて、それがすべて橋でつながっているため自動車も自転車も通行禁止。バスを降りると、そこからはすべて徒歩か水上バスの移動となる。私が選んだホテルは水上バスの停留所のすぐ横、キャナルグランデと呼ばれる大運河に面したホテル。時刻は夕刻でもうすっかり暗くなっていたが、お陰様で迷うこともなくすぐにホテルに到着することが出来た。
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ホテルのすぐ側の木彫工房。ウィンドウには沢山の天使達が並んでいました。ヴェネツィアにはこうした手仕事が今でも沢山息づいているようです。
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カーニバルといえば仮面。カーニバルの時期は終わっていましたが、仮面を売るお店は街のあちこちに。夜のショウウィンドウの中の仮面はいっそう幻想的です。
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私達が泊まった場所Ca’
Rezzonico
からサン・マルコ広場までは歩いて20分ほど。水上バスに乗ればすぐですが、古い街並みを楽しみながらの夜の散歩も素敵でしたよ。
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サン・マルコ広場の有名なキャフェ・フローリアンは1720年創業。外から眺める夜のフローリアンはまるで宮殿のようです。フローリアンにはまた後日出掛けました。
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■2月某日 晴れ
今回の滞在は、典型的なヴェネツィアンスタイルの古い建物を上手にリノベーションしたホテル。「ヴェネツィア貴族の女の栄華はフランス王妃のそれをもしのぐ」と塩野七生がエッセイで書いていたことを思い出させる私達にとっては稀に見る豪華な部屋。「ヴェネツィア貴族のお姫様」とまではいかなくとも「お姫様の侍女」といった感じで、シルク織物のクロスやファブリック、もちろんシャンデリアや鏡はヴェネツィアングラスだ。何よりも感激したのはバスルームで、アイボリーとピンク、ゴールドの小さなガラスタイルのモザイクがフェミニンで、しかもバスタブはジャグジー!日本以外の国でジャグジーに入ったことのない私、特に寒い時期には涙ものだ。そんな訳で、ヴェネツィアに滞在中は朝晩お風呂に入り浸りだった。
しかも今回はモーニングビュッフェ付き。朝から様々な美味しいパン(イタリアのパンはいまひとつだった思い出があるのだが、ここのパンはそれは美味だった。)と様々な美味しいハム、チーズをゆっくり時間を掛けていただく。これも滅多に無い贅沢なひとときだ。
昨日の晩は、特に地図も見ないまま、迷うことなくサン・マルコ広場まで散歩に出掛けたのだが、今日はどう間違えたのか全然違う方向へ。外敵に備えて細い路地が迷路のように巡らされたヴェネツィアの街は、本当に迷路そのもの。橋を登って下りて、また運河を渡り…遠くからは見えているのに、どうやってもそこへたどり着けなかったりする。(笑)
ヴェネツィアは他のイタリアの都市に比べ物価が高いというが、そのすべてを船で運び、陸に上げてからは細い路地をすべて人力で運ぶのだからある程度は仕方の無いこと。陸に上げた後も本島内に400はあるという橋を上ったり下ったり、これもまたすべて人力、島内には車は一切入れないため、警察のパトカーや救急車も船だし、たぶん消防車も。ヨーロッパのクロネコヤマトともいえる宅配業社DHLも専用トラックならぬ専用ボート。霊柩車の代わりに霊柩船?にお棺が乗せられて運河を通っていき、お墓の島に運ばれていく姿にはびっくりしてしまった。何しろ、ほとんど17世紀のままで時間が止まってしまったこの島で暮らしていくことは、ある意味文明社会とは違ったところで生きていくこと。羨ましいような、でもやっぱり大変なような。まさにここは「17世紀のテーマパーク」なのだ。
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今回ヴェネツィアで滞在したのはグランドキャナル沿い、ここHotel
Plazzo
Stern。残念ながら運河に面したキャナルヴューのお部屋は既に満室でしたが、ヴェネツィアらしい雰囲気たっぷりなホテルでした。トルコとの交易で栄えた街だけあって、そこここにイスラムの影響を受けた痕跡が。
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まずお部屋に入ると大きなヴェネツィアングラスのシャンデリアに圧倒!びっしり彫刻の施されたベッドボードにも注目!壁は金糸が織り込まれたシルク張りで、とてもクラシックなお部屋でした。
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どこぞの宮殿?という雰囲気の大きなヴェネツィアングラスのミラー。「お姫様」は無理でも「侍女の部屋」という感じではありませんか?
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こちらはホテル内の画像。シャンデリアの大きさもさることながら、クーポラの壁画は14世紀のものだそうです。
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■2月某日 晴れ
いよいよ今日は今回の旅の目的、ヴェネツィア本島からブラーノ島へ船で渡り、ブラーノ・レースミュージアムへ向かう。このブラーノ・レースミュージアム、日本で調べた時には公式サイトも閉鎖され、今までも何度か「わざわざやって来たもののクローズ」という体験をしている私の気を揉ませたが、出発する少し前に、世界中のレースミュージアムを巡っているお客様から昨年の秋にお出掛けになったこと、長らく改装のためクローズしていたが最近オープンしたことを伺い、このたび安心してやって来たのだ。
私達が滞在していた
からブラーノ島行きの船の出るフォンダメンタ・ヌォーヴェ(Fondamenta
Nuove)までは大運河を渡った対岸の反対側。いくらヴェネツィアが歩いてどこにでも行ける、とは言っても果てしない距離に思われ、途中まで水上バスで行く事に。
本来、私達が水上バスを降りたCA' D'ORO
(カ・ドゥーロ)からフォンダメンタ・ヌォーヴェの港まで地図で見ると徒歩数分のはずなのに、これがタイヘン!地図を見て歩いているにもかかわらず、まるで迷路の中に迷いこんだようで、どこをどう行ってもたどり着かないのだ。(笑)気分はテーマパークの中のメイズ!向こうの方から見えている運河にかかる小さな橋がどうしても渡れないのだ。「ここに違いない!」と歩いた路地の先が行き止まりで、「その先は運河」になっていた時など、地図を手にもったまま呆然としてしまった。また、そんな私達の姿を見て、対岸から「泳いで渡れ!」と笑っている工事現場のおっちゃん達。力なく笑うしかない私達だった。
そんな紆余曲折を経て、やっとの思いで港に着くと船は出た直後。近くのバールでエスプレッソを飲みながらひと休み。実は、ヴェネツィア本島からブラーノ島までは水上バスで約40分。結構遠いのだ。今でこそ40分だが、昔は本当に不便な場所だったに違いない。そんな場所だったから他に産業も無くレースが発達したのだろうか。
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すぐにまた戻ってくると分かっていても、フォンダメンタ・ヌォーヴェの港から船で離れていくと何ともいえない気持ちに。船って独特の郷愁がありますね。
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やっとたどり着いたブラーノ島はこじんまりとした素朴な港町。カラフルに塗られた小さな可愛らしい家々が立ち並ぶ。思い思いに塗られているにもかかわらず、全体のトーンが合っているのは、真っ青な空によく映える色を選んでいるせいか。元々、漁を生業としていたこの島、濃霧の中、漁師が漁から帰って来る時に、すぐに自分の家が分かるように、という事でこんなカラフルな街並みになったらしい。ここでも小さな橋を登ったり降りたりしているうちに広場に面したブラーノ・レースミュージアムに着いた。
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ブラーノ島はヴェネツィア本島とはまた違い、カラフルでお伽の国のような小さな港町。こんな細い水路があちこちに巡らされています。
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ここにもやはり車は一台も無いはず。猫がのんびり散歩していたりします。
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昨年リニューアルされたばかりのこのミュージアムはかつてのレース学校跡、けっして大きな規模ではないけれど、ヴェネツィアンレースとブラーノレースに特化した本当に素敵な美術館。女性客ばかりの静かなこのミュージアムで、こんな興奮状態でガラスケースにへばり着いていたのは私達二人だけだったかもしれない。古い、恐ろしく細かな仕事の広幅ボーダーを目にしては、とても人間技と思えず、「この仕事、嫌過ぎる!」とつぶやく。同じ人間がした事とは到底思えないのだ。
引出し状になった展示ケースを自分で引出して見ていく展示方法も、レースを真近で見られてとても良い。私達が特に気に入った作品は、かつてはこのブラーノ島の教会の祭壇に飾られていたというもの。聖母マリアや幼子、天使達の具体的なモチーフがヴェネツィアンレースで表現されたそれは、繊細なだけではない何か崇高なものが感じられるレースだった。ここに来るためにわざわざヴェネツィアを訪れて本当に良かった。今までよりも、もっとヴェネツィアンレースが身近になった気がする。
ブラーノ・レースミュージアムでレースを堪能した後も、実はまだまだレースを巡る旅は終わらないのだ。ブラーノ島にはお土産のレースを売る店がいくつもあるのだが、そのひとつLidiaでは現在作られたニードルレースを販売している他、店の奥には素晴らしいレースのコレクションが私設ミュージアムとして飾られていることをお客様から伺っていたのだ。
目的のお店はブラーノ・レースミュージアムからすぐ、たまたま覗いたお店がそこだった。店内に飾られていたポワンドガーズの額に反応している私達に、「アンティークのコレクションはこちらにありますよ。」と送り込まれたのがその私設ミュージアムだった。お客様からは「ブラーノ・レースミュージアムよりも立派なコレクションですよ。」と伺っていたのだが、本当にその通り。ブラーノ・レースミュージアムで見られるのはヴェネツィアンレースとブラーノレースばかりだが、こちらではフランスもフランドルのレースも全般的に見る事が出来る。中にはナポレオンのハンカチだとか、有名なレースの本に掲載されていたコレクションも。とにかく貴重なレースが「これでもか!」と展示されていて圧巻。非売品も多いのだが、中には実際に購入出来る物もあるらしい。(教えて下さったお客様のお話では、「ボロボロのグロ・ポワロが日本円で70万円ほどだった。」ということなので、価格については観光地のそれと思った方か良いかも。)
どうやらここは、かつて存在したブラーノ・レース学校の最後の校長を勤めた男性を祖とするお店で、学校の閉鎖に伴ってそのコレクションを受け継いだらしい。思いがけない貴重なレースの数々に茫然自失の私達は、お店の方にチップを渡すのもすっかり忘れてしまい、そのままフラフラと外に出たのだった。
青空の下、カラフルな街並みと暖かな陽気に誘われて、近くのレストランで昼食を取ることに。高級でもなんでもない素朴なレストランのテラスで食べたペスカトーレ、そして赤ワインのカルベネ、「どうしてこんなに美味しいの?」というくらい美味しかった。この島もそうだが、海に囲まれたヴェネツィア名産の魚介類は私達日本人にとってはお馴染みの食べ物。カルベネも一度レストランで勧められて飲んだら、すご〜く美味しかったので「イタリアワイン恐るべし!」と馬鹿のひとつ覚えのようにこればかり飲んでいた。「こんなにも青空で、食べ物もワインも美味しくて、季候が良ければ、ユーロが破綻するのも仕方なし。」と思った私達だった。
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暖かい日だったので、こんな運河沿いのテラス席でお食事しました。気持ちの良い戸外で美味しいお食事やワインをいただくのは最高です!
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このおうち、まるでピンクの壁の色に合わせて洗濯物を干しているかのよう。絶対そうに違いありません!
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こちらはグリーンとブルー地帯。鮮やかなグリーンとブルーのグラデーションのような街並みです。
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こちらはブルーとイエロー系の補色の関係。こんな可愛いおうちが連なっています。
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画像では分かりにくいでしょうか?この教会の塔はかなりの傾きが。ヴェネツィア本島と同じく、ここも少しずつ沈んでいるのでしょうか?
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■2月某日 晴れ
連日、「気分は観光客」で過ごした私達、もちろんここヴェネツィアでもアンティークを探したけれど、レースがあっても「ベラボー」に高く(しかも欲しいレースは皆無。)、ジュエリーが出てきても巨大な大きさで全然そそられず、結局「そういえば、ロンドンにもパリにもイタリア人が買付けに来ていたものね。」と納得。以前、フィレンツェに行った際にも、出てくる物ときたらイギリスのホールマークが付いた銀器ばかりだったことを思い出した。
昨年訪れたウィーンでは、ゲルマン的に「今日は美術館。」「明日はオペラ。」と次々たてたスケジュールをこなしていたが、今回は超ラテン的!一番の目的レースミュージアムだけ押さえた後は、水上バスを駆使して島内をあっちへブラブラ、こっちへブラブラ。美術館へも特に予定を組むことなく、思いつきでふらりと立ち寄る。
「観光喫茶」なんて言いながらも、自分達の手の届く有名店は一応押さえる私達。ヴェネツィアに到着した夜には外から眺めるだけだった有名カフェ、サン・マルコ広場のフローリアンへも、もちろん出掛ける。あの夜、外からメニューをチェックしているとフランス人ファミリーのお父さんに「凄く高いよ!」と声を掛けられたのだった。すぐさま「これは入場料だから。」と答えると一同爆笑。フランスのバカンス時の今回、フランスからの観光客をあちこちで見た気がする。何より、ここヴェネツィアでは、英語よりもフランス語の方が断然通じるのだ。イタリア語と同じくラテン系の言葉だからか、それともイタリアの学校教育が英語よりもフランス語やスペイン語などのヨーロッパ言語を重視してきたからだろうか。
そのフローリアンは、ゴールドの装飾と絵画で覆われたまるで美術館のような店内。赤ワインのグラスをオーダーすると、お皿山盛りの巨大オリーヴとタブナードのスティックパイと一緒に登場。10ユーロでそれってけっして高くないと思う。詳しくは河村の「しのぶ写真館」をどうぞ
最後の夜は近所の小さなレストランで。それというのも、「クン、クン、これってイカ焼きの匂いだよね?」と「イカ焼き」そのものの匂いに誘われ、思わず足を向けてしまったのだ。(にもかかわらず、「オクトパスはタコ。あれ?イカってなんだっけ?」と「イカ」の単語が英語でもフランス語でも、もちろんイタリア語でも分からず、結局頼むことが出来なかったのだが。)
今回のイタリア旅行で覚えたイタリア語は、挨拶の他、ビーノビアンコ(白ワイン)、ビーノロッソ(赤ワイン)、アクアミネラーレ(ミネラルウォーター)、そしてカラフェやボトルの大小を示すためのグランデ(大)、ピッコロ(小)、とレストランで使う言葉ばかり。それに私達の知っている僅かなフランス語を加えればどうにでもなってしまう。イタリアンレストランのメニューは、私達日本人にとってフレンチレストランのメニューよりずっとお馴染み。「イカ焼き」こそ逃したものの、魚介類が特産のヴェネツィアは思いがけず美味しい物だらけだった。(そして、日本に帰ってきた今も河村は私のことを「グランデちゃん」と呼んでいる。それって…。)
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橋の上で「こんにちは!」「ごきげんよう!」そんな声が聞こえてきそうなシーン。ヴェネチィアならではの風景です。
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サン・マルコ寺院と鐘楼。ここサン・マルコ広場までは水上バスですぐ。近年では、サン・マルコ広場が水没することも珍しくないようですが、私達がいる間は一度もそういった光景を目にすることはありませんでした。
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「絵葉書的風景」のリアルト橋。サン・マルコ広場界隈に散歩に行った帰りは、ここから水上バスに乗って帰るのがキマリでした。橋の上には、華やかなショップが連なるアーケードになっています。
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美しいマーブルペーパーの文具で有名なイル・パピロ。本店はフィレンツェにありますが、ここヴェネツィアにも支店が。ここのマーブルペーパーにはいつも目を奪われてしまいます。
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こちらは上のウィンドウのブルーバージョン。学生時代、フィレンツェでこのマーブルペーパーに魅了された私は、せっせと自分でもマーブルペーパーを作ってみましたが、なかなかこのように美しい色は出せません。
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長靴を履いた猫?その表情と衣装が魅力的な猫のマリオネット。今にも動き出しそうです。
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“TROVATO”は「見つけて。」という意味かしら?このワンちゃん、行方不明のようですね。車の無いヴェネツィアでは犬を飼う人もいっぱい。沢山のワンちゃんと遭遇しました。
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こちらは住宅街にいきなりあらわれた15世紀の建築コンタリーニ・デル・ボーヴォロ階段。「コンタリーニさんちのカタツムリ階段」という意味らしい。確かにグルグルです。
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黄昏時のヴェネツィア。まさかまたここを訪れる機会があるとは思っていませんでした。イギリスやフランスと違って、「外国」に来た気がします。
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■2月某日 晴れ
今日はヴェネツィアを離れ、また午後にはパリへ戻る。あっという間のプティバカンス、でも「たまにはこういうことも必要。」と身にしみて感じた夢のような四日間だった。名残惜しみながらダイニングで美味しい朝食を食べる。広々して運河に面した明るいダイニングとも今日でお別れ。初めての朝、ここでうきうきしながら朝食を食べた喜びがよみがえってくる。「本当に来て良かったね。」と河村と話しながらゆっくりいただく。
「ヴェネツィアのお姫様の侍女の部屋」ともお別れ。パリへ戻ると「メイドの部屋」かと思うと、こちらもまた淋しい。
楽しく過ごしたホテルをチェックアウトし、荷物をホテルに預けたままホテルの目の前、17世紀の貴族の館Ca'Rezzonico(カ・レッツォーニコ)へ。ここは「1700年代ヴェネツィア博物館」になっていて、当時そのままの内装や調度品を見ることが出来る。(そう、こここそが本当のヴェネツィア貴族のお姫様のいたところなのだ!)豪華な内装や調度品に心を奪われつつ、特に感動したのが当時のヴェネツィアの風俗や風景を描いた絵画の数々。なんと、1700年代のヴェネツィアの風景は現代と何ら変りがないのだ。違いは運河に浮かぶゴンドラの数ぐらい。(現代では水上バスや水上タクシーが行き来しているが、当時はゴンドラしかなかったため、運河中にゴンドラが溢れている印象だった。)改めてこの街が18世紀当時からほとんど姿を変えることなく現代にいたることを再確認した思いだった。
思えば、「ブラーノ島のレース・ミュージアムへ行く」という言い訳(?)の元、やって来た今回の旅だったが、実際にヴェネツィアに訪れてみて、当時ヨーロッパの最先端の街であったここでレースが生み出され、それがヴェネツィアの一番の産業であった海運業でベルギーやフランスなどヨーロッパ中に広まり、やがてヨーロッパの覇権がフランスに移っていくに従ってレースの覇権もフランスに移っていったことが体験として良く分かった気がする。
Ca'Rezzonicoの次は最後にもう一度サン・マルコ広場を散策することに。水上バスに乗って向おうとしたのだが、いつもなら5分程待てばすぐにやって来る水上バスが全く来ない。20分は待っただろうか、ようやくやって来た水上バスに乗る。その時点で「ん?どうしてこんなに長い間水上バスが来ない?」と不審に思ったのだが、そのまま乗り込みサン・マルコ広場へ。
サン・マルコ広場をブラブラ散策し、最後のヴェネツィアを名残惜しみ、また再び水上バスで帰ろうとすると…今度はまったくバスが来ない!!午後2時には空港にいなければいけないのに、刻々と時間だけが過ぎていく。仕方ない。このまま水上バスを待つより、歩いてホテルまで戻ろうということで嫌々歩き出すことに。(水上バスなら5分ほどだが、歩くと20分はかかる。)「おかしい!どうして!?」と河村に八つ当たりしながらなんとかホテルまで歩いて戻った。ホテルのレセプションで荷物を受け取りながら「今日はイタリアの祝日なの?」と聞くと、疲労困憊の私にレセプショニストの彼は「あぁ!」という表情を浮かべ「今日の午前中はストです。」とのお返事。フランスでは悪名高いストに何度か遭遇してメトロや国鉄の間引き運転に当たったこともあったが、まさかここイタリアでもストに遭うとは!どうやら水上バスも間引き運転をしていたらしい。
「これはさっさと島を出ないと大変なことになる!!」そう思った私達は、大急ぎで荷物と共にまた水上バス乗り場へ。なんとか水上バスに乗って島から出ないと、飛行機に乗れなくなってしまう。
またもや少し待ったがようやくやって来た水上バスに乗り、島の入口ローマ広場へ。そこからヴェネツィア・マルコ・ポーロ空港へは空港行きのバスで。バスターミナルはストのせいでごった返している。長蛇の列に並び空港行きのバスに乗り込む。結局、飛行機に乗り遅れることはなかったものの、優雅なヴェネツィアの休日の思い出がすっかり吹き飛んでしまう出来事だった。
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「サヨナラ、ヴェネツィア!」とサン・マルコ広場での散策を終えた後、こんなことが待っていようとは。サン・マルコ広場の薄紫の街灯が青空に映えます。
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***後遍へと続く***
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