〜イギリス編〜

■5月某日 小雨
 買付け前の連日連投のスケジュールがたたったのだろうか?飛行機の中では、ほぼ眠りっぱなし。本を読んでいたはずなのに、いつの間にか膝に本を広げたままうたた寝。モニターで映画をいていたはずなのに、いつの間にかその姿勢のまま眠りこけ、映画はいつしかエンディングへ。まるで睡眠薬を飲んだかのようにいくらで眠れる不思議なカラダ。それって本人は自覚がないままトシを取ったということ?そんな中、最近公開で、映画館で見たいと思っていたのに、このところのあまりのスケジュールのため叶わなかった“Atonement(邦題「つぐない」)”のみ、眠らないよう思い切り目を見開いて最後まで鑑賞。若い頃は断然ハッピーエンドが好みだったのだが、「こうした悲恋のお話も美しくて良いかも…。」と思えるのは、やはり大人になったせい?

 ロンドンに到着すると、飛行機の窓ガラスを叩く雨。タクシーに乗るため外に出てみると、薄手のコートを着ているにもかかわらず、イギリスらしく何やらうすら寒い。慌ててコートのボタンを留め、ベルトを結ぶが、日本の初夏を思わせる暑さからやってきた私には想像外の寒さ。本当に、ヨーロッパの天気は来てみなければ分からない。果たしてこんな寒くて大丈夫なのだろうか?「暑かったらパリで履こう!」とスーツケースに詰めてきた麻のパンツとサンダルが空しく頭をよぎる。

 そうそう、ひとつ笑ってしまった出来事が。空港のゲートから外へ出ようと通路で荷物を運んでいる途中、空港の女性係官に呼び止められてしまったのだ。

女性係官 : “Do you have any fishs?”
私 : “Pardon?”
女性係官 : (両手で形作りながら)“Fish?” (※海外へは魚肉類や野菜、果物など生ものは持ち込み禁止になっている。)
私:(笑いながら)“Fish? No, I don't have.”

 そう、魚を持っていないかと聞かれたのだが、あまりに唐突な質問に思わず笑ってしまった。魚ねぇ。きっと私の二つのスーツケースを見た彼女は、日本から帰ってきたイギリス在住者だと思ったのだろう。しかし魚とはねぇ。いくら何でも、あまりイギリスに持ち運ぼうと思わないけど…。

毎年この季節になると、私の目を楽しませてくれる近くのプライベートガーデンに咲くライラック。びっしりついた薄紫色の小さなお花とかぐわしい香りが魅力です。


まだ肌寒いロンドンも、もうすぐ初夏の季節。フラットの窓から眺める風景も新緑のグリーンが煙って見えます。

■5月某日 曇り
 時差ボケで午前3時に一旦起きるも、再び眠る事に成功し午前6時起床。まずは携帯電話で日本にいる河村に「着いたよ〜!」コール。早口でちょうど開催中の名古屋骨董祭の様子を聞く。お馴染みのお客様やわざわざ静岡からいらしてくださったお客様の話を聞き、「私も名古屋骨董祭出たかった。」とぽつり。
 さほど朝早く出掛ける必要のない今日はゆっくり支度、CNNと同様ずっとニュースが流れるSky Newsにチャンネルを合わせ朝食。ラッシュアワーの地下鉄に揺られまずは仕入れ先へ。一度乗り換えをし、駅を降りてからも20分近く歩く道のり。いつもは河村とあ〜だ、こ〜だ、と話しながらなんとなく着いてしまうのだが、今日はいつもより幾分遠く感じる。「そういえば、昔はひとりで来てたんだった。」と以前ひとりで仕事をしていた頃を思い出し、ちょっぴり自分を励ましてみる。

 やっと着いた仕入れ先なのだが、今日は一向に目に入って来るものがない。いつもほんの少しだけだが何かしら仕入れるものがあるのだが、今日は皆無。もうこのマーケットもついに終わりなのだろうか。ここに来ると、昔の賑わっていた頃を思い出し、ついつい悲しい気分になってしまうのだ。結局ペンダント用のチェーンだけを買い、マーケットをあとにした。

 地下鉄が余り好きではない私のこと、そもそも途中までバスで帰ろうと思ったのが間違いの元だった。「前回来た時、確かこの17番のバスで帰ったはず。」とよくよく考えもせず乗ったバスはなんとキングスクロス行き。そう、前回はこのバスに乗ってキングスクロスの隣のセントパンクラスまで、ユーロスターのEチケットを発券に来たのだった。(ユーロスターは昨年の秋からそれまでのウォータールーからセントパンクラスに発着駅が変わっている。)そんなことをすっかり忘れて乗ってしまい、一度帰るはずのサウスケジントン近くのフラットからどんどん遠ざかっていく。「あ、ここダイアナとチャールズが結婚した所だ!」と観光客気分でセントポール寺院の横を通り過ぎ、「まだいいか。」と本来乗るべきサークルラインの地下鉄の駅も見過ごし、あっという間にセントラルへ。このまま乗っていては、本当にキングスクロスまで行ってしまう。しかもキングスクロスからフラットはセントラルを挟んで対角線上、ますます遠くなってしまう。そんな中、バスは見覚えのあるストリートへ。「もうここで降りるしかない!」と降りたのはピカデリーラインのホーボーンの側だった。
 フラットから遙か彼方のピカデリーラインの駅、そこから同じくピカデリーラインのナイツブリッジに出て、ハロッズの向かい側で両替を済まし、再びバスに乗ってフラットへ。午前中だけで、ロンドンを半周近く。ちょっぴり旅した気分だった。

 さっぱりめぼしいものが見つからなかった午前中だったが、午後から出掛けたのはソーイングツールを扱うディーラー。いつも必ず立ち寄るディーラーなのだが、ここ最近めぼしい出物がなく、毎度河村とがっかりすることが多かったのだが…。「今回も商品変わっていないなぁ。」と見回していると、見覚えのないアイボリーのニードルケースが。王冠かたどったその形は、今までにも一度だけ扱ったことがある。「これってニューストック?」と聞くと「ううん、そうでもないんだけど。」といささか歯切れの悪い返事。見せて貰うと、アイボリー製品の致命傷ともいえるヒビが入っている。残念ながらこちらは却下。「う〜ん、残念。」曇った私の顔色を見て、彼女が奥から出してきてくれたニューストックは、一面に細かなお花の彫刻が施されたやはりアイボリーのニードルケース。繊細な薔薇と様々なお花が彫刻された何とも典雅な雰囲気だ。「大丈夫、これはノーダメージよ。」との彼女の言葉どおり良好な状態。予想通りの高価なニードルケースだったが、入手できた喜びも大きい。

 次に向かったのは、コスチュームを扱う初老のマダム。20世紀の衣装を中心とする膨大なコレクションの中に埋もれている彼女、いつも何かしらちょっぴり仕入れられるものがみつけられるため、必ず立ち寄るコースだ。今回出てきたのは、宮廷で国王に拝謁する際に頭に着ける羽根飾りとヴェールのセット。「1920年代よ。」とマダムが教えてくれたとおり、以前全く同じものをケンジントン・ガーデンの中のステーツアパートメント(ヴィクトリア女王が育った場所ステーツアパートメントは、博物館になっており、沢山の古い衣装を見ることが出来る。)の展示で見たことがある。1920年代なので、ヴィクトリア女王の孫にあたるジョージ5世に拝謁した時のものに違いない。素敵な羽が着いているので、お人形の材料にと思ったのだが、バラバラにしてしまうのももったいない気がする。そんな中、マダムから「私のビジネスパートナーだったセーラを覚えているわね?」と問いかけられる。このマダムは他の場所にもショップを持っていて、こちらにも共同経営者のやはり初老のマダムが常駐していたのだ。最近行っていないが、以前何度も訪れたことがあり、もうひとりのマダムにも良くして貰ったことのある私は大きく頷くと、「セーラは昨年の秋に亡くなったのよ。」とポツリ。「ええ!?」とびっくりする私。思わず、まだ駆け出しのアンティークディーラーだった頃、値段が高くて迷いあぐねて買えずにいた私のことをハタチそこそこの女の子だと間違えたのだろう。「あなたがあんまりラヴリーだからまけてあげるわ。」と彼女からニッコリ微笑みかけられたのを思い出した。

 今日の買付けはここまで。ロンドンの高級品店が連なるオールドボンドストリートを抜け、歩いてピカデリーへ。トコトコ歩くのは、オールドボンドストリートのおしまいに並ぶ高級なアンティークジュエリーのショップのウィンドウを見たいが為。こうしたショップにはジャストルッキングは通用しない。鍵のかかった入り口のベルを押し、ガードマンにうやうやしくドアを開けて貰うのだ。もちろん見るだけの私はこうしたショップに足を踏み入れる機会はまずない。美しく飾り付けられた様々な、たぶん驚くほど高価であろうジュエリーのまたたきにウィンドウに吸い寄せられるようだ。美しいもの探しの散策の最後はお気に入りのバーリントンアーケードへ。ここもヴィウトリアンでもあり、数多くの高級ジュエラーが軒を並べるロンドンでも高級なアーケードのひとつ。きっとヴィクトリアンの頃も着飾った紳士淑女がウィンドウを覗いたことだろう。

ここロンドンにもラドュレがあるのですよ。バーリントンアーケードの一番おしまいのここのウィンドウも楽しみのひとつ。春らしくスミレのボックスにスミレのお花やパフィームのディスプレイ。

 今日の外出はまだまだ終わらない。ここしばらくご無沙汰だった愛しのレンブラントに逢いにナショナルギャラリーへ。ナショナルギャラリーといえば、ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」をはじめとするイタリアルネッサンスのコーナーもお気に入りなのだが、いかんせんルーブルやウィツィのコレクションと比べるとどうしても見劣りがしてしまう。イギリス人がコレクションを始めた頃には、既にめぼしい絵画は皆収まるところに収まってしまった後だったのだろうか?

 ルネッサンスは置いておいて、今日の目的はオランダ絵画のレンブラントルームにあるレンブラント63歳の自画像に逢うこと。隣の部屋にはレンブラント34歳の自画像もあり、こちらもなかなか若くて「いい男」なのだがちょっと軽薄な感じ。私の好みは断然63歳の老いて渋い愁いをたたえた、でもしたたかな部分も持ち合わせたレンブラントその人。技巧的に見えない、だが技巧に溢れたこの肖像画の彼には本当にいつ逢っても魅了されてしまう。

 沢山歩いた今日は、まだ買付け初日だというのに足が痛んできた。少し足を引きずりつつフラットへと帰宅した。

これが私が愛するレンブラント63歳の自画像です!いいんだなぁ、これが。ちなみに34歳の自画像はこちら。あなたはどちらがお好きですか?


ナショナルギャラリーからトラファルガースクエアを見下ろして。正面の遙か遠くに見えるのはビックベンです。

■5月某日 曇りのち晴れ
 目が覚めたのは午前4時半、午前6時前にはフラットを出るため、ゆっくり起きて身支度をする。今日の午後にはロンドンからパリへの移動が待っているため広げた荷物を再びスーツケースに詰めなかなか忙しい。まだ外は真っ暗、出掛ける頃には明けてくると思いつつも懐中電灯を持ってこなかったことをチラリと思い出す。買付けに出掛ける前に「ねぇ、今回は懐中電灯いらないよね?」と河村にしつこく尋ねまくった挙げ句、今回は持ってこなかったのだ。(秋から冬にかけての買付けでは必需品のため。)支度を済ませ、ひとりの今回は少しドキドキしながら早朝の戸外へ。なぜって、ここ最近ロンドンの治安の悪さは目を覆うものがあり、知り合いのアンティークディーラーが早朝出掛ける折に金銭目的で襲われ、怪我や大金を奪われる事件が続いたり、同じく日本からのアンティークディーラーがよく泊まっているホテルで窃盗が起きたり、と身近な事件にことかかないからだ。お陰様で私が滞在しているのは、事件が起こった地域とは離れているのだが、以前のロンドンは決して治安の悪いところではなかったのに、最近同じ場所で頻発しているということは、同一犯か、それとも大金を持った日本人ディーラーが大勢滞在しているという噂が広まったためか。
 だが、外に出てみると夜はすっかり明け、明るくなっていて一安心。通りでタクシーを拾って買付け先へ。

早朝から買付けの日は、まだ薄暗い中ひとりで朝食。買付け用の超小型パソコンで今日のロンドンのお天気をチェック。様々なシードが付いたベーグルが最近のロンドンでのお気に入り。暖めて紅茶と一緒に。それでは行ってきます!

 今日なにはともわれ欲しいのはポワンドガーズのボーダー、出掛ける前に話した河村との電話で、「もう在庫が全然無いから探してきて。」と言われている。そういえばここ最近、目に付くポワンドガーズが無く新たに入手していなかったのだ。そんなことを頭の片隅に置きながら仕入れ先へ。

 なかなか気に入ったものに巡り会えない日。やっとの思いでみつけたのは、いつもフランスものを持っている女性ディーラーからシルク張りのフレーム。彼女の所へ行けばイギリスにいながらにしてフランスの雑貨を得ることが出来るので、とてもありがたい。彼女も私の顔を覚えていてくれて、「こんなものもありますよ。」とすすめてくれる。今日は美しいシルク生地と一緒にいただいた。

 なかなか気に入ったジュエリーをみつけられずにいたのだが、それでも可愛いリングやすずらん模様のロッククリスタルが見つかって嬉しい。このところのロンドンは、ジュエリーといえば非常に高価、ほどほどのお値段だとどこか難あり、と場合が多く、気に入ったものを見つけることがとても難しくなっている。もうアンティークは無くなる一途なのだろうか?

 さて、お目当てのポワンドガーズだが、馴染みのレースディーラー何軒かを当たっても皆無、全く見ることがない。まるでポワンドガーズはイギリスから消え失せてしまったかのようだ。唯一、前回荷物に入れ忘れられたポワンドガーズのモチーフを受け取り(前回日本に帰って、このモチーフが入っていないことにすぐに気付いてメールで知らせておいたのだ。ありがたいことにちゃんと残っていて嬉しい!)少しほっとする。しかし、出ないときは、本当に出てこないものだという事を今更のように悟り、暗澹たる思い。いつも半分冗談で言っているのだが、やっぱり「誰かコレクターが死ななきゃ出てこない!」のかも。そんな事を思うと頭の片隅でチラリと罪悪感がよぎるのだが、実際本当にそうなのだ。だが、代わりに見つけたのはエシャーワークが素晴らしいベビードレス。丈が短いタイプにしてはお値段もお値段だったが、この細工なら許してしまう。胸元にびっしり挿された刺繍が見事な一枚だ。そして、最後に良好な状態のルドゥテの「薔薇の図譜」(しかもNO.1とNO.2の人気シリーズばかりを集めたベスト版!)が出てきて、買付け終了となった。

 一度フラットに荷物を取りに帰り、午後からユーロスターに乗ってパリへ向かうためタクシーでセントパンクラスへ。慌ただしいことこの上ないが、これも仕方のないこと。またそのうちイギリスにもじっくり腰を落ち着かせて買付けがしたいもの。またブリティッシュレイルに乗ってバースにも行きたいなぁ。(バースのコスチュームミュージアムが一番のお目当て。)

 無事、ユーロスターに乗ることが出来てほっとする。いつも買付けの際の私のスーツケースは大小二つ。この二つを転がして移動するのはなかなか難儀なこと。いつもは、駅で私か河村のどちらかがカートを取りに行き(ユーロスターのカートは有料なので、どちらかがお互いの荷物すべてを見ていて、どちらかがカートを取りに行く。)、ふたり分の荷物をまとめてカートに載せて河村が運ぶのが常。そして、ユーロスターに乗る前には、荷物のレントゲン検査を受けるため、レントゲンの機械の上へ重いスーツケースを「ヨッコイショ!」と持ち上げなくてはならない。腰が折れそうになりながらやっとの思いで持ち上げる。これもいつもだったら、河村とふたりで協力しながらすること。このところ、買付けは常にふたり一緒で、迷った時でも河村の的確な(?)意見に支えられてやってきたこともあり、今回はひとりの買付けの心細さをひしひしと感じ、重い荷物には悪戦苦闘。そう、買付けはふたりの方が断然楽なのだ。

 パリへのユーロスターの発車時間がやってきた。スーツケース二つは何とか車内に持ち上げ、デッキの荷物置き場に納め、後は2時間半のんびりパリまで乗っているだけ。荷物と一緒に乗ってしまえばこっちのものだ。ユーロトンネルを越え、フランスの大平原を通り過ぎ、パリまではもうすぐだ。パリに着いたら、また二つの荷物をタクシー乗り場まで転がして、タクシーにに乗って後はいつものホテルに向かうだけだ。さて、電車はパリ北駅に到着し、「さぁ、荷物を降ろすぞ!」と気合い満々でデッキへ出てみると…デッキの荷物置き場には見慣れた赤いスーツケースひとつがポツンと置かれているのみで、一緒に並べて置いたはずの小さいスーツケースがどこにも見あたらないのだ。「ない、ない、な〜い…。」と青ざめる私。無くなった小さい方のスーツケースにも、さっき買付けたばかりの商品も入れたはず。車内の荷物置き場にも見あたらず。大きい方のスーツケースをホームまで降ろし、途方に暮れてしまった。列車から降りた人々はどんどん去っていき、ホームには私ひとりが赤いスーツケースと一緒に呆然と取り残されてしまった。

 まず気を取り直して両隣の車両の荷物置き場をチェック。もちろんそんなところにわざわざ他人のスーツケースを移動させるような奇特な人はいない。車内には修学旅行生のようなフランス人のティーンのグループが乗っていたので、彼らが間違えて持って行ってしまったのだろうか?こんなもの盗難にあうかしら?でも、それにしてもどこに行ってしまったのだろう?これはもう駅員に訴えるしかない、と意を決してスーツケースひとつを持って歩き出そうとしたとき、「ちょっと待てよ。」ともう一度車内に上がって上を見上げると…元々置いたデッキの荷物置き場からはかなり離れた車内の網棚の上に見慣れた黒いスーツケースが!きっと小さめのサイズだったので、自分のスーツケースの置き場に困った誰かが勝手に移動させたのだろう。「いったい誰だよ〜!!(怒)」と怒るやらほっとするやらで網棚から降ろした。今回のパリ第一歩はこんな感じで始まった。

***「買付け日記」はフランス編へとまだまだ続きます。***