16区のアール・ヌーボー散歩

当時、カステル・ベランジェ(奇妙な家)と揶揄されたギマールの代表作。ギマール自身もこの1階にアトリエを構えていたことでも有名です。ア−ティスティックなアイアンのエントランスが特徴的です。

 

 私が始めてひとりでパリの街を訪れてからもう十数年。それまでにもヨーロッパを旅したことはあったものの、バッグパッカーと称してリュックを背負って、たったひとりでドキドキしながらヨーロッパの街並みを歩いていた21歳の自分の姿を思い浮かべると、なんだかほほえましくなってしまいます。

カステル・べランジェの窓のデコレーション。有機的なアイアンの手すりと奇怪なレリーフがギマールのテイストを伝えています。

 当時、美大に通う4回生でイタリア、オーストリア、フランス、イギリスとヨーロッパの主な美術館を巡るのが旅の目的でした。美術史が好きだった私は、フィレンツェのウフィッツィ美術館でイタリアルネッサンスを満喫し、ウィーンでうっとりしながらクリムトの「接吻」を眺め、アール・デコ建築を訪ね歩き、毎晩のように立ち見でオペラを見、そして一晩夜行列車に乗ってたどり着いたのが、パリの東駅でした。

もともと1階部分はペルシャ絨緞の店舗として設計されたメザラ邸。かしこにギマールが得意とする有機的な曲線が配された、どことなく顔を思わせるデザインです。

 ちょうどクリスマスシーズンだったため、パリの街はイルミネーションがきらめき、ウィンドウはクリスマスのディスプレイで華やかに飾りつけられていて、遥か極東の国からやってきた女の子にとっては別世界の事のようでした。わくわくしながらウィンドウを覗きつつ、学生の貧乏旅行中の私は「いつか、きっと大人になったらまたパリに来るわ。」と強く思ったことを覚えています。

集合住宅の配管部分。このようなパーツひとつひとつにも、ギマールの装飾の思想が現れています。

 その当時、アール・ヌーボーに興味を持っていた私が、パリで数々な美術館のほかに訪れたのが、この16区のアール・ヌーボーの建物群でした。今回の買付けでは、ほんの少し空いた時間を利用して、十数年ぶりに、この16区パッシ―地区を訪れてみました。1900年のパリ万博の際にギマールがデザインした昆虫を思わせるメトロの入り口は有名ですが、この地区では、ギマールの設計した正真正銘の建築のいくつかを実際に目にすることが出来るのです。メトロの9号線JASMINで下車し、緩やかな坂を下った先にお目当ての建物のいくつかがたたずんでいます。道を歩いていても、すぐに分かってしまうデコラティヴなデザイン、アール・ヌーボー特有の謎めいたおどろおどろしさを感じさせる建物たち。

カステル・べランジェに記されたギマールの銘。1867年リヨンに生まれたエクトル・ギマールは、フランスのアール・ヌーボーを代表する建築家として、パリ市内に地下鉄のファサードや集合住宅の数々を残しています。世紀末当時、ベルギーの建築家オルタと並んで、ヨーロッパで流行したアール・ヌーボーの象徴的な建築家とされ、特にそのアイアンワークや有機的な曲線を生かした建築で一時代を築きますが、それも10年あまりの短期間で、アール・ヌーボーの衰退と共に、忘れられた存在となってしまいました。

 Rue La Fontaineには、ギマールのアトリエのあった集合住宅カステル・ベランジェ、メザラ邸、ギマールがカフェまで手がけた集合住宅群等など、興味深い建築物が何軒か並んでいます。そして、驚くべきことは、すべての建物が現役で使われているということ。今回私が外壁の写真を写している間も、そのアール・ヌーボーの特徴あるエントラスから住人らしき姿が出入りするのを目撃し、思わず一緒に入って行きたくなってしまいました。それは、学生時代の「何でも見てやろう。」と好奇心いっぱいで歩き回った、大人になりきっていない自分の姿が目に浮かぶような不思議な瞬間でした。

 パリの街は美術館だけでなく、こうした街の隅々にも過去へとトリップ出来るヒントが隠されているように思われるのです。世紀末の時代に思いを馳せながら、パリでのアール・ヌーボー散歩はいかがでしょうか。